ふくや創業者・川原俊夫の明太子作りにかけた情熱とその生き様が紹介されました。
川原さんや奥さん、お子さんはどんな方なのでしょう?明太子を作り始められた理由は?
福岡の名物になるまでに、どんな紆余曲折をされたのでしょうか?
ふくやの明太子を作ったのは誰?
川原俊夫さんで、釜山で生まれた方。
戦後、満州から帰った後、福岡の中洲市場で食料品店を営んでいたそう。
川原俊夫さんは、近所で火事が起こると真っ先に駆けつけ、また被害にあった人を家に泊めてあげるなど、困った人がいると放って置けない人柄。
戦後、大変だったとき、福岡の人に助けてもらったからと人に尽くしていたそう。
口癖は「見返りを求めてはいけない。そして人からしてもらったことは絶対に忘れてはいけない」。
奥さんのお名前は?どんな方
川原さんの奥さんは千鶴子さん。
千鶴子さんも韓国で生まれ育った方。
後から詳しく書くように、明太子がなかなか売れずに大変だった時期が10年も続いたそう。
それでも、俊夫さんを心から信頼して、かつ明太子の味については思ったことを伝えていたという千鶴子さん。
大変な状況にあっても奥さんが味方で、俊夫さんも心強かったのではないでしょうか。
明太子を作り始めた理由は●●
夫婦お二人とも日韓併合時代の韓国で生まれ育ったので、韓国のメンタイは思い出の味。
それを食べたいという千鶴子さんのため、またおいしい明太子ができれば人が喜んでくれるのではないかと、人助けや仕事で多忙な中、明太子づくりを始めたそう。
ところが、なかなかよいタラコが手に入らない上、メンタイに使う唐辛子にも何種類もある。
調味料の配合などを工夫して試行錯誤して、千鶴子さんが「おいしい」と言う明太子にたどり着くまでにかかった期間は、何と10年!
ところが、思い通りの味を完成させたものの、まったく売れず。
明太子が売れるようになるまでのストーリー
明太子の作り方を何度も変えて、試行錯誤しながら、よりおいしい明太子を追求する川原さん。
明太子をPTAの会合に持って行ったりして、色々な人の意見を聞いて、もっとおいしい明太子ができるように改善していたそう。
経済的にも大変だったにもかかわらず、人のためにという行動を積み重ねられた俊夫さん。
明太子を食べた方が俊夫さんのためにと、周囲の人にふくやの明太子をすすめてくれ、評判が口コミで広がっていき、いつしか遠方からも「ふくや」のお店にお客さんが来るように。
こうして「ふくや」の明太子が福岡の名物になったそう。
明太子が博多だけではなく、全国に知られる名物になったのはどうしてでしょう?
川原俊夫さんの大きな決断とは?
川原俊夫さんの一番大きな決断とは、特許をとらず、明太子の作り方を隠すことなく広めたこと。
しかも無料で。
作り方を公開してしまうと、他社も同じような作り方で明太子が作れるようになってしまいます。
それでも、作り方を独占するよりも、色々なお店の多彩な味付けで、一番おいしい状態の明太子を、できるだけリーズナブルな価格で多くの人に食べてほしい。
こうして、多くのお店が独自の味付けを加えた明太子を作り、販売するようになったそう。
1975年に福岡まで新幹線が通ったのも後押しして、俊夫さんは高額納税者に。
ところが、1980年に俊夫さんが亡くなった後、人々が驚いたことに、資産が残っていなかったという。
それは、派手な生活もせず、地元の伝統のお祭りが存続の危機に陥ると資金を提供するなど、人のためにお金を使っていたから。
こんな川原俊夫さんや千鶴子さんの生き方に多くの人が感動して、川原俊夫さんが福岡発の朝ドラ「めんたいぴりり」のモデルとなったり、今回のアンビリバボーで紹介されたのですね。
番組放送記念の限定商品はいつから販売?
番組の放送を記念して、限定商品も販売します!#ふくや #アンビリバボーhttps://t.co/2fM9LM9jqM
— 株式会社ふくや (@fukuya_mentai) 2018年5月31日